否定的な考えから「うつ病」に
悩むとうつ病に
自殺者や未遂者は、うつ病になっている人が多い。うつ病になって自殺するということがあるのであるから、うつ病を早目に発見して治療を受ける必要がある。うつ病になると自殺しないでも、身体症状、精神症状から、仕事をする意欲がなくなり、職場や学校に通うことができなくなるとか、家庭で愛情が感じられないと家庭崩壊などがおこる。
このようなことを防ぐためにも、うつ病にならないように気をつけたいのであるが、うつ病は、何でも「悩む」ことから起こるようである。うつ病になった人を調査してみると、男性の場合、転職、転勤、地位の昇進、定年、解雇など仕事と関連した出来事をきっかけとしている。女性の場合、転居、出産、配偶者の死亡、子供の結婚など家庭的な問題にまつわる出来事から起こっている。男女共通のものは、病気、事故、近親者の死亡などである。
こういう出来事があった時には、自分の思うようにならないことが毎日何回もあって、こんな生活(自分、仕事、病気などは「嫌だ」「つらい」「面白くない」「不安だ」「不満だ」だ、という「否定的思考」を頻繁に起こすことが脳内の神経を刺激して脳内神経物質のバランスを崩して「うつ病」になるようである。否定するものは、認知行動療法では、自分、世界、将来とされている。世界には他者を含める。自分、あの人、自分の環境・状況、将来が「嫌だ」「つまらない」「絶望だ」「不満だ」という思考(自動思考)を繰り返すことで、うつ病になる。
「否定的思考」が
そこで、うつ病に強くなるためには「嫌だ」というような「否定的思考」をあまり起こさないことが肝要である。「否定的思考」というのは、自分、仕事、対人関係、生活、将来が自分の基準にあわないという不満を持つことである。現在の自分に安住しないわけである。自分がめぐまれていることを自覚、感謝せず、文句ばかりいいたくなる。こんな生活、あんな人と会うこと、これからの将来は面白くない、嫌だと思う。
人間の心身は、本来は、どんなことがあっても、不自由なことがあっても、うまく対応して動くようにできている。めったに死ぬようなことはないのであるが、わざわざ自殺に追い込むのは、「精神」(思考)である。迷い、分別、妄想(自動思考)ともいう。上記のような出来事の間でも、身体は何の問題もなく動いて終わっていくのであるが、「精神」(意識)「分別」が「あいつを許せない」「この生活ではいやだ」、病気になっても、死んでもいないのに、前々から「死ぬのは嫌だ」(将来を予測)という精神(意識)が動き、これが陰性の感情を起こす。「嫌だ」と思うと、大脳辺縁系の神経に作用して、すぐ「嫌な感じの感情」が起り、しばらくして一層嫌な「気分」をおこさせて、気分がめいってきて、仕事も趣味も生活も楽しめなくなって、いよいよ現在の状況・自分を「嫌だ」という思いを強めて、ものの見方、人の見方が悲観的、否定的になって、仕事などかえって能率が悪くなり、対人関係がさらに悪化していくという悪循環に陥る。こうしたことが繰り返されると、うつ病になる。
自分・他人を否定しない
うつ病を防止したり、うつ病になった人が回復するには、「嫌だ」という思考(その後に感情、気分が続く)を超越することが大切である。抑えるのではない。終わったことに、かかわりあわないのである。眼前のことに生きていく。それを常に実践するのである。「すべてが自己、すべてが世界、他者も自己」という哲学がある。感情の生理学でも、他人を否定しても、世界を否定しても、自分の否定にはねかえってくる。思想的にも理解すれば、人の失敗、悪意のある言葉を(自分の子供のおかした場合のように)怒ってもまもなく許したい、人の幸福を(自分の子供の幸福のように)うらやむことなくひがむことなく喜びたい。他人への祝福は自分の祝福である。
死んだら「自分はよいところ(極楽など)へ行きたい」などと思わず、「私は地獄でよいから私の子供を、配偶者を、友人知人を極楽へ」と思いたい。いや、さらに、死後のことを願うのは僭越である、死後のことはすべてまかせる、として一切、死のことを考えず、現在の生活に目を向けることができる。配偶者や親や子供に感謝しつづける。人は、ひとつの場所、一時の場所しか生きられない。感謝の念が満ちている心には死の観念は入り込めない。言うのはたやすいが、するのは難い。それを呼吸法や自己洞察法で養うのである。自己洞察瞑想法の実践によって、否定的思考を起すもとにある二元観から離れていく。禅宗の坐禅は厳しく、むつかしい説法があるが、自己洞察瞑想療法の呼吸法や自己洞察法はやさしい。心の病気から回復するような否定的思考の基礎にある固定観念、二元観などを根本から変えていく。